時は文久2年(1862)江戸時代の後期。日本橋は経済の要所として栄えていた。
日本橋川の北岸にそって魚河岸やが趨勢を極め、道路は碁盤の目のように整備されていた。

日本橋を渡り、両岸に魚河岸を眺めながら3本ほどの通りを進むと左側に越後屋があり、
その反対にうなぎ屋の名店「大江戸」があった。

そしてその一本ズレた通りに伊勢堀の終着があり、そこにもうなぎや「江戸屋」があった。
さてこの江戸屋「大江戸」の半分ほどの広さで、名店の陰に隠れがちであった。
暖簾をかけわけ、杉の木で作られた格子扉を開けると対面に焼き台があり、その手前に床机が2,3あるばかりの小さい
飯屋であった。

「大江戸はいつも混んでいて暑苦しい。やっぱり江戸屋は空いてていいや。」

そんな声が聞こえる店内で、泰然自若として笑顔でお客さんの話に耳を傾ける亭主がいた。
それこそ江戸屋の店主「江戸屋与兵衛」。

この亭主。何を言われても動じず、落ち着き払っている。
長く仕えていた人物から「江戸屋」を受け継ぎ、今に至っているそうな。

そんな折、江戸の町では異変が起こっていた。「イテテテ腹がいてえ」こんな会話が江戸の至る所で聞こえ始めた。
箇労痢が蔓延していたのだ。いまでいうところのコレラウイルスだ。

江戸の町は水路に囲まれていたため箇労痢は水の流れに逆らうことなく広がり蔓延した。

活気があった日本橋の街は瞬く間に棺桶で埋め尽くされてしまった。
越後屋は節せと死装束を作り、魚河岸屋が棺桶を作るといったひどい有様であった。

とここで江戸屋与兵衛。箇労痢が流行りだしても泰然自若としている。
「店で流行ったら大変だ」と日が暮れる前に店じまい。

魚河岸やはそんな姿を見て、「あんたの店は大丈夫なのかい」と与兵衛に気をかける。
この魚河岸や名前は「一朗太」。「江戸屋」の隣長屋で商いをしており、一代で魚河岸やを築いた男であった。

与兵衛は「箇労痢が終わらないと何もできませんよ」と穏やかな態度をしている。

魚河岸やはその言葉とその表情に一切の曇りを感じなかった。

「うちでは箇労痢をコロッと倒すってぇ言っては特売をやっているが、点でダメだ。お互い用心しよう」
といって江戸屋を後にした。

与兵衛は店のに焼き台の横に座り、お客がくるのを待った。やはり箇労痢の影響で人がよりつかない。

「いつかコロッといなくなるさ」そう言って、焼き台の横で待ち続けた。

しかしいつになっても箇労痢が止む気配がない。

焼き台の横から店先の道を見ると魚河岸やが棺桶を3つ抱えて走っている姿が見えた。
与兵衛は「ふっー」と息を吐きひたすらに座って待った。

3か月、6か月と待ち続けた。

しかし箇労痢が収まる気配なく、被害は増える一方であった。
街には棺桶、日本橋を流れる川には商船に交じって棺桶が躍る有様であった。

街に溢れる棺桶は、いつしか「江戸屋」の入り口を塞ぐほどになってしまった。

おっとこれはいけないと、気付いたのは魚河岸や。

店先の棺桶をどかしながら、「おーい与兵衛さん。これじゃあ店に入れないじゃないか。何をしているのか」と格子の間から中を覗き込んだ。
すると与兵衛に動きはない。はて寝てしまったのかと魚河岸やが店先の棺桶をやっとの思いでどかし中に入り肩を叩いた。

手に触る感覚は人のそれとは違っていた。とても冷たく、無機質なさわり心地を覚えた。

なんと与兵衛は石になってしまっていた。

焼き台の横でうつむいたまま腰かけ、手の甲にあごを乗せたまま石になっていたのだ。
彫刻で削り出されたかのような石は細かい表情が見て取れた。

いつもの穏やかな表情そのままに眉間に一本の線が浮き出ていた。

魚河岸や一瞬驚いたものの「うん。泰然自若。しかし今じゃ泰然自石だ。」と言って店を後にした。

箇労痢がさったのは一年が過ぎた頃であった。
魚河岸や一朗太は「なんとか乗り切ることができた」と一杯の酒を飲み干し大江戸を後にした。