心のよりどころはどこにあるのか
こんばんはしょーたです。
生きていると、心のよりどころを求めることがあります。
「心のよりどころ」は一言で表すとすれば、「自分自身の心を一定に保ち、支えるもの」です。
友人に求める人もいれば、家族、恩師など様々な選択があるでしょう。
何も他人のみが心のよりどころになるわけではありませんね。
美味しいものを食べて、また頑張ろうと思えることや、景色からでも心を洗うことができるでしょう。
大好きなペットや、趣味からも心のよりどころを得ることもできます。
今回はそんな記事を書いていきます。
以後、心の拠りどころを「心拠」と書きます。
一つ付け加えますが、スピリチュアル的なことを書くつもりはありません。
結論から言えば、「心拠」は自分の中にあるからです。
スピリチュアルといえば、霊的な存在を肯定します。そしてあらゆる精神的な活動に他からの干渉が加えられていきます。
「悪い霊がついています。」「この石を買えば、悪い流れから断ち切ることができます。」等の文言がいい例でしょう。
先述したように、心拠は自己の心の中にあるため、スピリチュアルとは全くの別物ですので誤解なきようお願いします。
タップできる【目次】
心拠がない人
拠りどころが見つからないという人もいるでしょう。
何をしても不安を感じ、心が安定せず拠りどころが見つからないという場合と
その逆も然りで、心の拠りどころがないから落ち着く心が見つからないということもあると思います。
「友人がいないから、自分の悩みを打ち明けることができない。」
「そもそも何をよりどころにすればいいのか。」
と考える人がいます。これが心拠のない人になります。
拠りどころがない。という人の多くは、拠りどころを心の外に求めがちです。
心の拠りどころは、自分の心の中にある。という前提を持つことが大事です。詳しく書いていきましょう。
心拠は自分の心の内にある
自らの心を一定に保つことを補完するものこそが「心拠」です。
そしてそれは、他に求めつつも自分の中で落とし込まれ、整理し、心の落ち着きへ昇華されます。
わかりやすく例をだします。
自らの拠りどころを特別な景色として、それを見ることで怒りや葛藤から解放されるとします。
この例は、それぞれ想像しうるものでかまいません。
その景色を見て「やっぱり癒される」と感情を抱き、自己を見つめなおしたとします。
この一連の流れの中で、自分以外を構成するものはありません。視覚を通して目の前の光景を捉え、脳が現実世界を構成しています。
つまり他に心拠を求めることも結局のところ、自己の内部(脳内)における処理に依存しているということになります。
つまるところ
心拠はどんなものでもよい。ということになります。
「心の拠りどころ」がない。という方も悩む必要がないということになります。
なんだそんなことかと思う方もいると思いますが、自分の心の内に依存しているということはそういうことなのです。
当たり前のことなのですが、
一方で、友人がいないから心拠がない。心拠はどこにあるのかと考えていた人にとっては救われる内容だと思います。
心拠はどんなことでもいいわけですから、美味しいものや、好きな女優・男優に求めてもいいわけです。
自分の内で完結するものなのですから、自由な発想で心拠を求めればよいのです。
注意点
注意点としては、心拠に依存してはならないということです。
心の拠りどころに男性俳優がいたとして、その俳優がなくなってしまったとします。あなたは、心の拠りどころであった人がなくなることで、深い悲しみに陥ってしまうでしょう。
心の拠りどころがなくなってしまったからといって、生きることに嫌になるかもしれません。
しかしながら、その時こそ、自らが設定した心拠は自分自身の内部処理による産物であったと、改め直さなければなりません。
心の拠りどころを自己の外部に置くことによって、自分の存在が他に依存してしまうことに敏感にならなければなりません。
これが「心拠」を据えることの注意点になります。
まとめ
心の拠りどころがない。という人はまず自分の心の中に、「よりどころ」が生成されるということを認識しなければなりません。
つまり他人や他事に「心拠」を求めたとしても、それに意味はなく単なる気休めだと理解するということになります。
「我思う、故に我あり」とデカルトは言いました。
拠りどころを他に求める人は多いと思います。しかしながら考えているのはあなた自身であり、あなたが構成した心理体系
なのです。
他という虚構に拠りどころを作りあげ、それに依存してしまうことはなりません。
心の拠りどころは心の内、つまり自分自身なのです。
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