それでも善いと思うことをしよう
こんばんはしょーたです。
自己の感情に敏感になるとどんなことが起こるでしょうか。
例を挙げましょう。
先日電車に乗る機会がありました。
ホームに向かう階段を見上げると、若い女性(外国人女性だと思われる)が重そうにキャリーバックを抱え、階段を下りてくるところでした。
すかさず、「持ちますよ」という言葉と、ジェスチャーを使いキャリーケースを受け取り、平坦な場所まで移動させました。
女性から感謝されましたが、ここで終わっては単なる美談?で味気ないでしょう。
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行動の裏側には何が見えてくるか
この行動の裏には「女性はか弱い」という前提が自己の中に存在している!と気づくわけです。
自己の中で、経験として「重い荷物を持っている女性を助けることは善」というものがあるからこその行動ですね。
このことに気付いているか、気付いていないかは重要なことと思います。
例えば、「女性はか弱い」という前提が崩れた時です。
先ほどのキャリーケースの例で、「持ちますよ」という言葉を純粋な優しさで声をかけている場合。
「余計なことはしないで下さい。」と断固拒否されたとします。
純粋な優しさをもった人は、(どうして優しさを無下にするのだろうか)と思うことでしょう。怒りすら覚えることもあると思います。
この感情が、自己の深い感情に気付いているか、いないかの違いになります。
自己の深い感情に気付いている人は、自分自身が「女性はか弱い」という前提に理解があるので、「余計なことはしないでください。」
と断られたとしても「失礼しました。」という言葉が出ます。
では何もしないことが正しいのか
自己の中で、「か弱い女性」がある種の見下しであると気づいたとします。
(見下しているわけではないかもしれませんし、弱いものだとも思っていないかもしれませんが、深く考えてみてください。
何も思っていなければ、行動はそもそもとらないわけです。)
話は戻して、
その場合、キャリーケースを持つという行為をしない方がよいのだろうか。と考えることとなると思います。
重そうな荷物を持っているが、二の腕を鍛えるかもしれない。と考えを改めることになるかもしれません。
このことは、突き詰めれば徹底的に他者との関わりを排除することにつながります。二の腕を鍛えているだろうから、余計なことはよそう。といったことや、
自己の感情に気付き、その絶望から「行動をとること」を躊躇することもあるでしょう。
しかしそんな世界を望んでいるでしょうか。望んでいないと考えています。
いままで何人もの方のキャリーバックを持ったかわかりません(男性も含めて)が、「バカにしないでください。」といった人は一人もいませんでした。
もちろん「大丈夫です。」という方はいました。5%ほどの割合だと思います。
善いと思う行動の裏に思考を巡らせる
自分自身が善いと思う行動は結構なことだと認めながら、その裏に潜む感情に盲目にならず、深く思考する。
それが大事なことと思います。
考え抜いて、マイナスな面も見え隠れする中で、善い行いをする。
又は自己の感情を精査すればやらない方がいいことも見えてくることがあるでしょう。
キャリーバックを持つ・持たない問題を例に話を進めてきました。
こんな小さな出来事にも、難しさが含まれるわけですから、これが人種間、国家間の事象になればより複雑な問題を孕むということは想像に難しくないでしょう。
それでも。それでも私は前を向く。
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